昭和四十七年七月一日


御理解第八十八節
「昔から親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは顔をきれいにする許ではない、心に辛い悲しいと思う時鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよと云う事である」


今日は実際は「御理解」というこゝのところを頂いたのですよね、御理解の理という字を頂いた、それではまあ御理解になりませんから、理という字に基づいて、又頂かせてもろうたら、この八十八節でした。ですから、この理と云う字は今日の場合、どういう風に頂かせて頂いたら良いだろうかと、思わせて頂いたんですけれども、これは王様の王という字を書いて、里と書いてある、これはだから私は王という事は、例えば天地の王は、天地の親神様だと思うのです。親神様のおふところの中にある訳でございますけれども、私は今日の八十八節を頂きながら、まあ云うなら、言外の言を感じたんですけれども、確かに親から、様々なしつけをして頂いて嫁入りをする、どうぞ娘が幸せになってくれるようにと、まあ祈り願わん親は有りません、そこで決して楽しい事やら、楽な事ばっかりはないぞと、それは辛い事やら悲しい事にも出会うであろうけれども、そういう悲しい辛いと云う時に、この持たしてやった鏡を見て、まあ云うなら人に笑われんような生き方をさせてもろうて、家を治めて行くのぞと云う、これが嫁入らせる親の願いである、祈りである、ですから私は今日その、そこんところをですねえ、神様の願いというか、私共の云うならば、嫁入りをして一番楽しい、一番嬉しいのは、何と云ってもこの里帰りのようですねえ、もう里帰りは嫁入った者にとっとは一番楽しい、それが段々、親がいなくなったり、兄弟だけになったり、甥やら姪達だけになったりすると、里帰りも大して楽しいものではなくなってくるですねえ、まあだ親がおる間が里帰りが楽しいのである、と云う程に親は云うならば慕わしいものである、子供にとって、又は子供も同じ事、それこそ親は子薬、子は親薬という程しである。
 里のおばあちゃんが具合が悪いげなけん、と云うて娘がやって来ると、もう娘の顔見ただけで病気が軽うなったごとある、と云うのですよ、と云う程しに、親と子の情のかゝわり合い、交流というものは、まあ、あっておる訳であります。
 だから私共の最大の里帰りというものは、私共のお国替えの時だと思うですねえ、お国替えはひとつ本当にもう、忌み嫌うというようなものではなくて、人間がどうしても一度は帰らなければならないところ、それをどうでしょう、里帰りをするような思いで帰られるような境地を、心の中に開いておったら、素晴らしい事でしょう信心というのはぎりぎりのところ、大体そこを教えるのです。
 いわゆる死生の安心という事、安心だけではない、その喜びなんだ、その有難い里帰りが出来るという時にです、例えば娘が、嫁にやった娘が里帰りをする時の、いそいそとした心といったようなものがね、出来るようなおかげを頂きたいもんだなあと、私は思う、いよいよの時に。
 天理教の教祖が亡くなられる時に、「扉を開け」と仰ったそうですね、そして「さあ―」と云うて亡くなられたと。「さあ―今から行くぞ」と云うて、何ともその、異様なまでに、喜びの満ち溢れた状態であったかと云う事であります。
 矢張りこの、さあ―と云う心というのはね、さあ―起きるぞと、さあ―朝参りをするぞと。
今日から例年通り、全教あげての夏の信行期間に入ります。
 今日からひと月間、ですからこゝでは一時から、いつものように若先生の先唱で、それこそ一生懸命の御祈念の修行が、行なわれる事だろうと思います。ですから、それにはやっぱりどうしても私共がね、この夏期修行はどうでもという、その さあ―という勢いをもってね、参加しなければいけないと思うね。
 まあ、愈暑さに向かって参ります、ですからその暑さの中に、その暑さをもうそれこそ、暑いといったような事なんか、感じんで済む位な勢いをもってです、さあ―という勢いで、云うなら皆さんの心の故郷であるところの、お広前へ向かうて来なければいけない。今日、私は嫁入りをする時に鏡を持たせるのは、只顔をきれいにするばかりではない、自分の心をまず治め、自分の顔色から自分の心の状態を知り、そして、あゝこんなことでは家は治められない、これでは人間は幸せになれないと、日頃の教えを元にして、家を治めて行くという、そこで例えば、こゝでいつも頂きますように、治めるという事がです、いわゆるサンズイにムロとある、そこで治めるという事は、どういうような場合であっても、それこそ顔色ひとつかえんで済むような心の状態、そして一心にお縋りさせて頂いて、いわゆる任せて縋らせてもろうて、愈治っていくところの、おかげを頂かなければならない。
そういう私はね、日々修行が出来ておらないとです、例えばお広前も心の故郷として頂けないし、愈私共がお国替えのおかげを頂かせて頂く時にです、本当に里帰りとしての、有難い雰囲気の中に、一生を終らせて頂く、兎に角里帰りだと、そういう境地が開けてくるような、おかげを頂く為には、この八十八節の御教えというものがね、日々の中に養うていかなければいけません。
 私、いつも思うのですけれども、こうやって神様へ打向かうて、一日中神様 神さまでやっていっておるようであるけれども、厳密に云うと、相済まない心の状態でばっかりある、だからせめてね、せめて朝の三十分間、四時の御祈念に出る三時半から四時迄のその間をです、せめて金光様のお心の状態、といったようなものを、本当に味あわせて頂きたい、この三十分間だけは、一日の中で愈清められる時間として、私はしております。
 まあ本当に、そしておかげを頂きますこういう状態が一日続いたらと、思うのですけれども仲々、だからそれを目指してはおる訳ですよ。皆さんでもそうです、せめてお広前におる間は、お広前で御祈念しとる、お広前で御理解頂いておるだけの時にはです、本当に有難くなりたいという願いをもってのお広前でなければ、お広前に通うて来る、言わば懐かしさとか、慕わしさというものが湧いて参りません、成程心の故郷だなという事が分かりません。そしてその心はです、四六時中の中に頂こうとつとめますけれども、私共凡人ではそれが仲々出来ない、だからせめて、そんならこの時間だけ、せめて御祈念の間だけでも、せめて例えば今度の、そんなら夏の修行のひと月間位はこうと自分の心に、云うならそれぞれに工夫さしてもらって、素晴らしい有難い修行にならせて頂く、工夫がいるのじゃないかと思います。
 これは修行と云うものは、本当に行のごとくと云う、間違いの無い、云うなら修行をさせて頂いたら、もう絶対神様が修行は受けて下さるですねえ。
 私は今日の一時からの事を、修行の事をお願いさせて頂きよりましたら、歌舞伎俳優に沢村納升と云うのがおります。あの下の方の納升と云うところだけを頂いた。
 どういう事じゃろうかと思うたらね、神様が「納めます」と仰って感じがした、神様はもう絶対納めて下さるです、いわゆる受けて下さるです、これはもう絶対です。
 信心に修行はつきものと云われるが、本気で私共がね、例えば普通は出来んから、せめてこの夏期修行だけでもと云う、この夏期修行に、徹底した修行をさせて頂こう、いろんな工夫をさしてもらって、さして頂こうという事になればね、もう神様がこれは絶対納めて下さるです、それはね、形に見える事もある、全然見えない事もある、けれども納めておって下さる事だけは間違いない、だから、いつかもの云うてくるです、その修行が。
 私は一歩でも神様が、神に向かうて来たら、一歩でもおろそかにはせんと神様が仰るのですけれども、そういう向かい方だと思いますですね、そういう向かい方を神様は、絶対受けて下さる。
 もう本当に素晴らしい事です修行は、本気で修行させて頂くという事は、神様が納めますと仰る。まあのれんに腕押しと、ぬかに釘と云ったような事を申します、これは云うなら、信心で云うならばこうやって一生懸命修業させてもらいよるが、神様が受けて御座るやら、ござらんやら分らんと、いうような時代ではないでしょうかねえ、ですから何かあると、もう修行を間違えたり、挫折したり致します。だから私共が本気で修行させて頂いて、それこそ間違いの無いところに、ぐいぐい打ち込んで行けれる、その打ち込んでおるのがです、手応えがある程しのね、打ち込み方をさしてもらわなければおられない、だから本気で、矢張り修行してみなければならない、そして成程修行は神様が受けて下さるんだなあ、納めて下さるんだなあというこの実感をもって、修行にはかゝらなければいけません、又その実感がないならば、本気でひとつ、ひと修行やってみろう、という気にならにゃいけない、そのやっていく間をです、私は今日、八十八節で治めていきたいと思う。八十八節を内容としてです、本気で修行に取り組ませて頂く、そしてその修行がです、本当にお広前が慕わしゅうて慕わしゅうて、それは嫁入っておる娘が里帰りを、それこそ、いついつは里帰りが出来ると云うたら、それこそ指折り数えて里帰りを待つように、そこにはちゃんと親があるから、それである。
 こゝでもそうです、お広前が例えば、お互いの心のふる里として頂ける、皆さんが云われる親先生がちゃあんとおるからである、だからいくら親がおっても、例えば里帰りの楽しみというようなものが、喜びと云うようなものがないとするならばです、まあだまあだ金光様の御信心ぶりというものが、身についてないんだと云う事になります。
 そういう信心が、私はつのりつのらして頂いてです、最大の里帰りの時に、私共が愈天地にかえらして頂く時に、「あゝ心やすし」と云うていけれる境地、さあ―行くぞと云うて行けれる心の状態というものを目指してね、行くという事は、只今申しますような信心を続けさせて頂いてこそ、初めて頂けるのじゃないだろうか。
 神様へ向かうておる、その向かうておる事がです、ひとつも無駄ではない、もうひとつ打ち込めばひとつ、ふたつ打ち込めば二つ、いわゆる打ち込んでいっておるその心の上にです、その手応えを感じる程しの信心を、させて頂きたいと思う。
今日私は、御理解の理の字を頂いて、理と云う字をいわゆる天地の親神様の、言わば私共の理は、一番本当の意味に於いての理は、天地に帰らしてもらう時、これが天地が私共は里だと分からしてもらえれる、しかもその里に帰らしてもらう事が、喜びいっぱいで、それこそ心やすしとして、里帰りが出来ると云うようなおかげを頂くという事が、信心のぎりぎりの願目である。その願目をです、ふんまえての信心、そして例えば今日私が申します、修行に打ち込むと云う事がです、又はお広前にお引き寄せを頂くという事がです、本当にお広前が自分の心のふる里として頂けれるところまで、間違いの無いものにそだてゝいきたい。
 親先生と信者さんの間柄というものがです、そういう状態で結ばれるようなおかげを頂いたら、お広前が一段と、それこそ、こよない有難い場になってくる。
 愈今日から始まるところの修行も、只今申しましたような意味に於いてです、ひとつ本気でぎりぎり、本当に修行としてのひと月間が頂けますような、そして本当に打ち込みがいがあった、又は打ち込んでおるその事が、手応えを感ずるという程しのです、修行をねさせて頂きたい、ですから矢張り、どうでもその修行というのはどこ迄もね、貫くものでなからなければいけない、本当にいわゆる打ち込むものでなければいけない。そしてひと月間を私共のそういう信心を身につけて行く為の修行、その内容を、八十八節にひとつ置いていきたい。それこそどんな場合であっても、例えば雪が降り積もった松の木が、それこそ色さえ変えずに、敢然とした姿を見せておるように、松の一番素晴らしい、美しい姿は、そういう雪 霜に当っても、色さえ変えないというところにあるんだと、松の一番すぐれておるのは、そういう点だという意味の額が、日田の綾部さんの所にかゝってましたね。
 ですから私共がです、本当に いわゆる松の信心、愈心を大きくさしてもらう信心、そしてどのような事があっても、色さえ変えんで済む信心、それこそどのような場合であっても、黙って治められる信心、けれども治められない、だから修行するのだ、その修行させて頂いておるうちにです、成程云わんで良かった、行なわんで良かったというようなおかげになってくるのです。
 いわゆる黙って治めるという事が、このように素晴らしい事だと云う事が分かってくる、そういう信心を、続けさせて頂きながらです、愈天地に帰らせて頂く、大きな里帰りの時にです、有難いものいっぱい持って、云うならば里帰りをさせて頂くような、おかげを頂きたい。
 あの世にも持って行け、この世にも残しておけるという程しのもの、そこに里帰りが本当に楽しい、有難いと云う、嫁さん達が里帰りをしてくる時の楽しさを持って、天地に帰って行ける程しの信心を目指させて頂くという事を、今日は八十八節から頂きました。
 今日は大体は、御理解の理という字を解釈しての、八十八節でございました。里帰りという事の、いろんな意味での里帰りを聞いて頂きました。その里帰りの楽しい、嬉しいというような、それが信心の内容に出来てくる為に、ひとつ本気で修行をしようという事を申しましたですね。               どうぞ